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2004年8月に作成された記事

2004/08/30

独断的映画感想文:ワンダフル・ライフ

日記:2004年8月某日
映画「ワンダフル・ライフ」を見る.
いいとこと悪いとこのある映画.
とある施設,そこを訪れるのは死者である.
1週間ここで暮らす彼らは,最初の3日間で面接を受け,各自「自分の一番素晴らしい人生の思い出」を選ぶ.スタッフがそのシーンを映画化し,最後の日その映画を見ながら死者はその思い出だけを抱いてあの世に旅立つ,そういう設定のはなし.
いいとこは出てくる素人の人たちや映画作りのシーンで出てくるスタッフの人たちの演じる,ドキュメンタリー調のところ.
兄の思い出を語るおばあさんが,自分の娘時代を演じる子役に話しかける「私もこんな時があったのね」という言葉にしみじみとしてしまう(俳優じゃないけど実に味のあるおばあさんだ).
悪いとこはこの映画の設定自体.どうしてたった一つの思い出以外は皆消されてしまうのか.素晴らしい思い出がない人は(選べない人は)どうなるのか?
ヒロインのしおり(小田エリカ)がどうもそうらしい.彼女自身死者なのだが彼女の経歴は一切判らない.何故18歳で死んだのか,も.
しおりは面接アシスタントとして,やってきた女子高生(吉野紗弥加)が「東京ディズニーランド」を選んだのをたしなめ,その結果女子高生は子供の時の母との思い出を選び,しおりに後から感謝するのだが,その後しおり本人はひどく落ち込んでしまう.
極悪人でも良い思い出のある人はそれを抱いてあの世に行くのか.あの世に行くためのこの施設はどうしてこんなにみすぼらしいのか(1週間滞在するだけの死者はまだ良いとして,何年もこの施設で暮らしているスタッフは嫌にならないだろうか?).と言う感じで,考え始めるといろいろなところが気になる.
この映画は感動しそうで感動しない,でも不思議な味のある映画.小田エリカがかわいい.監督は「幻の光」の是枝裕和,★★★☆(★5個で満点).

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2004/08/25

武蔵野会

父の古いアルバムに「武蔵野会」と記入された写真が幾枚かある.
いずれもセピア色の写真で,料亭らしきところで背広を着た男達が大勢こちらを見ている.
差しつ差されつ飲んでいるスナップもあれば,仲居さんも交えて,床の間を背に集合写真になっているものもある.チョッキを着ている男もいる.太いズボン.オールバックの髪型.
時は1950年代から60年代,父たち高度成長期の猛烈サラリーマンが一番元気なときだったろうか.肩を組み,丸い眼鏡を光らせて口を開けて笑っている男達.12月頃の写真では,お約束の三角帽子(ケーキとぺらぺらの紙の三角帽子がこの当時のクリスマスパーティーの定番だった)を一同でかぶっているものもある.
子供の時に見た父のこのての飲み会の写真は他にもいろいろあるが,「武蔵野会」の名前だけを覚えているのは名称が子供にも理解できたからである.僕は杉並区に住んでいて隣は武蔵野市,この界隈に住んでいるおじさん達なのだろうと簡単に推測することができた.
その写真に出ている男達はどうなったのだろう?
父はその後えらくなったのか,あるいはこういう大勢の飲み会はその後流行らなくなったのか,こういう猛烈で楽しげな飲み会の写真は以降あまり見かけない.アルバムの写真がカラーになった頃には,「武蔵野会」の写真はもう見あたらなかった.
父が亡くなって7年経つが,父のこういう若くて猛烈な時代の姿や声は,今では記憶から甦らせることができない.僕がいつも思い出すのは亡くなる前寝たきりになった父の姿や声で,元気に活躍していた頃の思い出は,その記憶に邪魔されてうまく出てこないのだ.
「武蔵野会」の頃の父は,猛烈に働きながらも,その若さのためか時代の雰囲気なのか,突き抜けるような楽天性が古い写真からもうかがえる.その写真に不思議な懐かしさを感じるのは,自分もその「武蔵野会」の頃の父の年代からは,すでに遙かに年を取ってしまったせいかもしれない.
(2004年8月25日(水))

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2004/08/24

独断的映画感想文:半落ち

日記:2004年8月某日
映画「半落ち」を見る.寺尾聰,樹木希林,奈良岡朋子.
題材は重い映画である.
警察学校の教官梶警部が妻を殺したと自首する.数年前に一人息子を白血病でなくした夫婦,妻は最近アルツハイマー病で急速に痴呆が進んでいる.息子を忘れてしまう前に殺してと頼まれ,警部は妻を殺したのだが,自首するまでに2日間の空白があり,その間に警部は歌舞伎町に行っていたらしい.
スキャンダルを恐れた県警は,他の事件と引き替えにしてまで捏造調書で梶事件の幕引きを図ろうとする.警部は何故歌舞伎町に行っていたか,黙して語らない.
サスペンスとしては途中送検されたあたりからテンポが狂った感じ,後半は妙に新聞記者が活躍したり,公判では弁護士と検事が力を合わせたり,裁判官が感情的に発言したり,「やってはいけない」がやたら出てきて映画らしさがだいなしである.
繰り返すが題材は重い.しかし後半は妙に苛々して楽しめなかった.映画で使用されている白血病患者の投書の全文が付録で入っているが,単純にそれを見た方が感動するくらい.
役者は寺尾聰はまあまあ,樹木希林,奈良岡朋子(お元気ですね!)が印象に残るが,その他のきら星の俳優はほとんど印象に残らなかった.吉岡秀隆はミスキャスト.あんな馬鹿な裁判官がいるものか(ってそれは脚本の話か).
エンディングテーマで思いがけず森山直太郎の「声」が使用されている.これに感動,おまけの★★★(★5個で満点)

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独断的映画感想文:ミスティック・リバー

日記:2004年8月某日
映画「ミスティック・リバー」を見る.
監督・音楽:クリント・イーストウッド.ショーン・ペン,ケビン・ベーコン,ティム・ロビンス.
ボストンの下町,路上でホッケーをしていた3人の少年の内デイブが車で連れ去られ4日間監禁,暴行を受ける.
25年後ジミーの娘ケイティが殺され,その晩血だらけになって戻ってきたデイブ,刑事ショーンがそれぞれの立場で再会する.
ケイティの恋人レイの父はジミーと因縁のある相手で現在行方不明,ジミーはレイを忌み嫌っている.ショーンの妻は現在家出中,時々無言電話をかけてくる.それに向かって近況を語ったりするショーン.デイブは定職がなく覇気もないが,息子の野球の相手をしている.
それぞれの傷を負ったものたちの殺人を巡る息づまるやりとり.犯人は誰か,のミステリーもさることながら,それぞれの抱えた傷の明らかになっていく展開も緊張感に満ちている.
3人の役者がいずれも良く,カメラも美しい.クリント・イーストウッドの音楽がこんなに良いとは思わなかった.この映画は好き嫌いの別れるところらしいが,僕は好きである.クリント・イーストウッドの映像センスが好きといったらよいのだろうか?
最後のシーン,自分の愚かな言動で夫を失った女,妻に自分の立場を正当化され立ち直った男,苦しんだ果てに妻と子を取り戻した男がそれぞれに視線を交わすパレードのシーンは印象的.★★★★☆(★5個が満点).

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2004/08/22

独断的映画感想文:ノッティングヒルの恋人

日記:2004年8月某日

映画「ノッティングヒルの恋人」を見る.
ジュリア・ロバーツ,ヒュー・グラント.ラブコメの傑作,おとぎ話だが映画として上等である.
ハリウッドの映画スター,アナが問答無用でロンドン・ノッティングヒルの本屋ウィリアムと突然恋に落ちる出だしも,何故かそれまで山のようにあった障害を飛び越えて,ウィリアムがハッピーエンドに向けて突進を開始する結末も,無理はあるけどそんなこたどうでも良いのだ.おとぎ話なんだから.
脇役陣が達者で面白いし,あちこちにちりばめてあるギャグがおかしい(訳判らずに馬鹿をしでかす通りすがりの外人が何故か日本人というのもまあいいや,特別に許す.アテネオリンピック好調のご祝儀).
サイモンとガーファンクルの詩を思い出すような,ノッティングヒルの街の移りゆく四季をウィリアムが通り過ぎて行くシーンがしゃれている.この辺はメイキングビデオを見たら楽しいかも.
こういうハッピーエンドになることが判っていて,何の心配もなく見れる映画というのも,ま,夢を与えるという映画産業のメインなのでしょうね.そしてこういう映画を,そこそこ失敗なく感動をちりばめ,決められた予算で期間内に撮るというのも,大変なことかも知れない.そんなこんなを考え始めると,おじさんにはなりたくないもんだなあとしみじみ思う.
と言うわけで,もっと感動的にすることはできたかも知れないが,充分楽しい映画,★★★★(★5個が満点)

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2004/08/17

涙腺(映画:アルジェの戦い)

涙腺というもの,小生の歳になるといささか頼りないところがありまして,どうも最近,緩い.
映画なんて見ていると特にそうで,おまけに最近はそういう映画を(「たそがれ清兵衛」なんて典型ですね)好んで見るもんだから大変です.
このごろは映画を見ては泣く(「ラスト・サムライ」とか),歌を聴いては泣く(森山直太郎の「さくら」とか),歌舞伎を見ては泣く(近松ものを玉三郎がやったりすると泣いちゃう),娘と一緒に「初めてのおつかい」を見ては(娘はこれが好きです)泣いちゃう.下手するとCMで69年頃のポップス(「夢のカリフォルニア」なんて効きますね)がかかると,それだけで泣いちゃう.

映画を見て初めて泣いたのは,「アルジェの戦い」という映画だったと思います.
この映画は1967年のイタリア・アルジェリア合作映画,アカデミー賞監督賞・脚本賞・外国語映画賞とヴェネチア国際映画祭金獅子賞を総なめにした傑作,音楽はマカロニウェスタンで一世を風靡したエンニオ・モリコーネ.
内容はフランスからの独立を戦い取ったアルジェリア人民の戦いを描いたもので,37年前のアメリカ人はこれをテロリスト映画とは思わなかったようですね.むしろフランス帝国主義よりは自分はアルジェリア人民に近いと思っていたんじゃないだろうか?

主人公は対フランスゲリラ闘争を戦うアリ,刑事犯として刑務所に入っていた彼は,ゲリラに対する処刑を目にして独立のために戦う決意をし,出獄後独立闘争に参加,映画では駆け出しだった彼が次第に国民的英雄になっていく姿が描かれる.
カスバを舞台とするゲリラ戦,街角の屋台のおばさんから子供が銃を受け取ってフランス人警官を撃ち殺し逃走するといった激しい戦い.フランス軍は精強パラシュート部隊を投入し,手段を選ばない弾圧に出る.
アリは仲間の自白によって追いつめられ,彼らが潜むカスバの住居にはフランス軍の手で爆薬が仕掛けられる.最後の投降勧告を無視して闇の中で堅く抱き合うアリたち,ついに隠れ家は爆破される.
それでいったんは収まったかに見えたアルジェリア独立闘争は,数年後突然再開される,しかも新しい形で.この時はゲリラ闘争ではなく大衆が蜂起したのだった.フランス軍の戦列に向かって何千何万という市民が行進する.フランス軍が「君たちの要求を言い給え」と呼びかける.しかし市民は何も要求せずにただ行進を続ける.
このシーンで映画は終わったという記憶があります.

このあたりの記憶は曖昧なことが多いのですが,まず小生はこの映画をどこで見たのか?
記憶によればこの(今から見れば)過激な映画はTVで放映されたのです.それを小生は友人と一緒に飲み屋(その店は某先輩によれば今も健在らしい)で見たような気がする.

店もたまらんかったでしょうな.映画見ている間客の注文はかなり活発を欠いたでしょうから.更に小生はこの映画の最後で泣いてしまい,それをその場にいた(当方が一方的に好きだった)女性に見られてしまったような記憶がある.その記憶のために小生はこの映画を「初めて泣いた映画」として覚えているのです.

この映画を見たのは,たぶん32年前の夏だと思います.32年という時間は短くはありません.その間に世の中は民族解放闘争が正義とされた時代から(例えテロでも民族解放闘争が正義であること自体は誰も否定しなかった),アメリカとイスラエルの武力行使以外はすべてテロとされる時代になってしまいました.
自分は革命を起こす年代から革命で打倒される年代になりました.
涙腺は止めどなく緩くなってきています.

人生がこのようになると言う予感はなくはなかったけれど,世の中がこうなるという予感はありませんでした.
世の中は悪くなっている.映画もしかり.晩年の淀川長治はアメリカ映画の堕落を嘆き,「ギルバート・グレイプ」「妹の恋人」あたりを評価した以外は「アメリカ映画が宇宙のバケモノや大統領殺しでゼニもうけに目を光らせている」と嘆いていた.
悪い世の中にはよい映画が少ない.ではよい映画を作れば世の中は良くなるでしょうか?できればそうなって欲しいものだと思います.
(2004年6月29日(火))

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2004/08/16

独断的映画感想文:八月の狂詩曲

日記:2004年8月某日
寝坊して起きたのが9時.映画「八月の狂詩曲」を見る.
黒澤明監督,村瀬幸子,吉岡秀隆,リチャード・ギア.
この映画をどういったらいいのだろう?子役達が口々に原爆の恐ろしさを伝聞で語り合っている場面は見苦しい.これではプロパガンダではないか?
映画はフィクションである.そのフィクションの中で実際に体験したという設定の人ならともかく,伝聞で話している内容にどれだけの真実があるだろう?また映画には実際の被爆者の人たちが出ているようだ.その人達と俳優が入り交じっていて大きな違和感を覚える.
ドキュメンタリーと創作はごっちゃには出来ないだろう.米国スリーマイル島の原子力発電所事故の後,放射性雲の通った後に異常な植物が多く発生した.どのマスコミも(日本のマスコミのことだ)決して取り上げなかったが,黒澤明が「夢」の中でその植物を映像にした.
黒澤の危機感は分かるが,それは違うだろうと思う.映画は映画である.真実を映画の中だけで取り上げれば,それは真実でなくなってしまうのだ.
その点でこの映画は基本的な違和感を抱えたままスタートし,それは最後まで変わらなかった.
しかし最後のシーン,兄の死を知って壊れてしまったばあちゃんが,嵐の中1945年8月9日に戻って夫を迎えに長崎を目指す.それを必死で追う4人の孫達.何の台詞もないこのシーンだけで,この映画は感動をもたらす.その黒澤の力量はやはり素晴らしい.
リチャード・ギアは居ても居なくてもよろしい.脚本はあまりに類型的で(少なくとも前半は)見るに耐えない.小学校の校庭のアメのように曲がったジャングルジムが,俳優が喋る何ものをも越えて衝撃的.★★★(★5個で満点)

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独断的映画感想文:トーク・トゥ・ハー

日記:2004年8月某日
起きてびっくり外は雨,映画「トーク・トゥ・ハー」を見る.
ペドロ・アルモドバル監督のスペイン映画.
冒頭,バレー(「カフェ・ミュラー」というらしい)を見る2人の男.ベニグノは母の看護を15年続けた後,街でバレリーナの卵アリシアを見初め,彼女が交通事故で昏睡状態になった病院で彼女の看護人を4年続けている.
マルコは女闘牛士リディアのインタビューを通じ彼女と愛し合う中になるが,試合での事故で彼女も昏睡状態になり,アリシアと同じ病院に入院する.そこで2人の男は初めて知り合うようになる.
昏睡する女を愛し続ける2人の男.ベニグノはアリシアに話しかけ続けるが,マルコはリディアに話しかける気にはなれない.
女への一方的なものに見える男たちの愛,物語は展開しやがて生と死が訪れる.
映画の幕切れ,冒頭同様バレーの舞台を見つめる男と女.ここから再生の愛が生まれる予感を残して映画は終わる.
スペイン映画の色彩感覚としゃれた映像は,この映画でも素晴らしい.いかにも映画らしい映画.ジェラルディン・チャプリンがバレーの教師役で出ているが(彼女自身ロンドン・ロイヤル・バレー・スクール出身),彼女が長年カルロス・サウラ監督のパートナーだったことを,この映画の解説で初めて知った.★★★★(★5個が満点)

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独断的映画感想文:美しい夏キリシマ

日記:2004年8月某日
池袋へ,新文芸坐で映画「美しい夏キリシマ」を見る.
黒木和雄監督,柄本佑,原田芳雄,左時枝,石田えり,中島弘子,小田エリカ,香川照之.
終戦直前のキリシマ,グラマンの編隊が低空で悠々と通過していくが,戦時下でもここ霧島地方は美しく穏やかだ.しかし6月に沖縄が奪われ,駐屯する軍隊はたこつぼを掘って竹槍訓練を繰り返し,ヒロシマ,ナガサキと都市が忽然と消えていき,身の回りには戦争と死が満ちあふれている.ついでに言えば,何かと言えば激昂して人を殴り倒す憲兵が横行している.
主人公日高康夫は勤労動員先の空襲で目前に友を失い,自分が生き残った後ろめたさを抱えて肺浸潤の身を祖父母宅で療養している.
特に中心となるドラマがあるわけではないが,戦時下で必死に生きていく人々のそれぞれの暮らし,その中での青春,終戦を境に変わっていく人々と変われない人々,それらが丁寧に描かれる.
夜の湖畔に流れる夢とも現実ともつかない不思議な美しい歌声のシーンも印象的.登場人物一人一人に存在感がある.
祖父母の小作人の娘で,日高家の女中なつ子が,頭に来ると履き物を脱ぎ,それを地べたに叩きつけて裸足で駆け去っていくのは,この子の癖なのかこの地方の普遍的表現なのか?2回ほど繰り返されるこの行為が引っかかる.一度宮崎県人N君に聞いてみよう.
淡々と美しい中で戦争を考えさせる作品,★★★★(★5個で満点)

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戦争と平和

戦争と平和と言ってもトルストイではない.
ザ・フォーク・クルセダーズのCD「戦争と平和」のことです.
この34年ぶりのCDはすべて新作(「あの素晴らしい愛をもう一度」とか「白い色は恋人の色」とかも入っているけどフォークルとしては新作ですよね),オリジナルでない作品もフォークルのアレンジでやはりすばらしい出来に仕上がっています.
小生としては#2の「あの素晴らしい愛をもう一度」,#3の「雨ニモマケズ」,#4の「感謝」までの3連曲と#13の「花はどこへ行った」,#14の「花」,#15の「白い色は恋人の色」までの同じく3連曲が好きです.
このアルバムを聴くとやはりフォークルの魅力というのは,第一級の音楽的センスと世の中への断固たる姿勢にあるということがよく判る.そして今回のアルバムの魅力の一つは,それが34年経っていささかも変わらないことにあるのではないか.
今回のアルバムで多用されているアイルランド風のパイプと和太鼓,ギターの組み合わせによるアレンジは,実に魅力的です.
特に「花はどこへ行った」と「花」の出来がよろしい.
本題から少し外れますが,「花はどこへ行った」という歌は,出典はショーロホフ作の大河小説「静かなドン」(言葉の真の意味での大河小説と言い得るか?)に引用されているコサックの古い軍歌であるそうな(読んだときには気がつかなかったなー).ピート・シガーがそれに取材して原曲(1番:花はどこへ行った,娘が摘んだ,2番:娘はどこへ行った,若者のもとへ行った)を作った訳ですが,その時には素材同様3番(若者はどこへ行った,皆墓場に行った)までしかなかったそうです.ピート・シガーが歌い始めたあと,誰かが付け足してあの輪廻する4番(そして墓場に花が咲いた)の構成にしたらしい.
フォークルの今回の「花はどこへ行った」は,この歌のこのような出自に恥じない堂々たるアレンジとなっており,どかんどかんと轟く和太鼓に乗って鳴りわたるパイプ楽器と合唱の響きは,まことに印象的です.そしてそれに続いてすぐ始まる「花」にも和太鼓が使用されており,この喜納昌吉の名曲を見事に演奏しています.
この2曲だけでも聞く値打ちがあると言いたいが,その他の全ての曲もいかにもフォークルという期待を裏切らない作品揃い.世の中に疲れているおっさんおばさんに元気をくれること請け合いです.
(2003年3月30日(日))

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海軍びいき

先週ビデオを借りて「長崎ぶらぶら節」を見ました.2000年のなかにし礼原作の東映映画,長崎の芸妓愛八の物語です.
舞台は大正年間の長崎丸山花月楼,豪商古賀十二郎の前で芸を競う愛八こと吉永小百合と高島礼子の顔合わせから始まります.
さてこの映画は丁寧に作られた明治大正の長崎を舞台とした映画ですが,僕にとっては愛八という主人公の魅力が印象的な映画でした.
愛八という芸妓は相撲と海軍を愛し,また義侠心が強く誇り高い人で,朋輩や貧しい子らに援助を惜しまず,自分には何も残らず質屋通いをしている様な人です.古賀と長崎の古い俗謡を探し歩き,その成果を西条八十の宴席で披露したことで,ビクターからレコードを出します.しかし相変わらずそのお金も,妹分の芸妓の療養費の負担として60歳で生涯を閉じます.
この映画でもっとも僕が感銘を受けたのは,実は前半の花月楼でのシーン,ワシントン軍縮条約の締結により(この辺から話はやや専門的になる?),戦艦土佐が建造途中で処分されることになり,明日は呉に曳航されて撃沈されるという夜,長崎造船所を望む花月楼に海軍士官が集まって悲憤慷慨している.そこへ愛八が顔を出し,土佐の通夜に唄を一つ唄いましょうと言って次の様に唄います.
    土佐は良い子じゃ この子を連れて
    薩摩 大隅 富士が曳く
    鶴の港に 朝日はさせど
    わたしゃ涙に 呉港
薩摩,大隅,富士は同行する僚艦でしょう.名前から見て薩摩,大隅は戦艦級,富士は重巡洋艦級でしょうか.
実は僕は父譲りの海軍びいき,父の本棚にあった伊藤正徳の連合(聯合)艦隊シリーズは小学生の時に全部読破しています.軍縮条約の結果とは言え,海軍が心血を注いだ戦艦を処分するというだけで涙がにじむところですが,この唄が実によい唄で,哀愁を帯びた吉永小百合の声はまことに印象的です.このシーンでは,さすがに座は静まりかえり,皆涙を拭わざるもの無しという状況です.
ここで思い出すのは,司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる,日本海海戦を控えて長崎港から出港する海軍軍艦を送るシーンです.
市民の送る中日本最初の軍楽隊というものが,戦艦の甲板に整列して演奏を行いながら港外へ出てゆくのですが,もちろん彼らが帰ってくるかどうかは分からない.奥の深い長崎港ですから,艦隊が見えなくなるまで先々の岬,山の端から老若男女が見送ったに違いありません.海軍びいきとしてはやはり胸の熱くなる情景です.
兵器としての軍艦は,現在とこの映画に出てくる80年前とでは比べるべくもありません.しかしこの時代,軍艦に日本の山河の名前を付けて愛称し,その運命に国の運命を重ね合わせて気持を傾けた心情には,何か懐かしいものを感じます.
と言う「長崎ぶらぶら節」の感想でした.
(2002年10月6日(日))

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灰色のノート

高村薫の「レディ・ジョーカー」をこの前ようやく読み終えましたが(図書館で空きがなかったもので),その中で登場人物が青春時代に読んだ本を30代半ばで読み直すものの例に「チボー家の人々」が出ていました.

あまりの懐かしさに「レディ・ジョーカー」と交換に図書館で「チボー家の人々」を借り出し,32年ぶりに「灰色のノート」を読み始めたわけです.

ロジェ・マルタン・デュ・ガール(R.M.G)によるこの小説は,ご承知の通り第1次大戦開始前のヨーロッパを舞台にした大河小説で,R.M.Gはこれを書くのに1920年から19年かかり,訳者山内義雄はこれを訳すのに1938年から14年間かかったという大作です.その中の頂点をなす「1914年夏」がノーベル文学賞を得たことで有名です.

ところでこの小説は僕には大変馴染みの深いもので,少年版「チボー家の人々」と副題の付いた「チボー家のジャック」を中学1年で読んで以来,高2で白水社の全巻を読み終えるまで,僕はこの小説に夢中でした.

僕がこの小説に夢中になったのはこの小説が「次男の小説」だと思っていたからです.ジャックはエスタブリッシュたるチボー氏の次男,年の離れた長男アントワーヌは既に青年医師です.

「灰色のノート」は「チボー家の人々」の第1章にあたり,この中に登場する15才のジャックに僕は自分を投影していたのだと思います.仕事に夢中で話の通じない父や,話は通じるけれど自分よりは遙かに洗練されているように見える兄と,強情で気持を表現するのが下手で鬱屈した思いを持て余していた自分を,この「灰色のノート」はまさに表現していたように思えました.

チボー家の次男として父親に反抗し自分なりの表現を求め,社会主義運動に身を投じ遂には第1次大戦勃発時に反戦ビラをまいてその生涯を終えたジャックは,実に大きな影響を自分に与えたような気がします.

今もう一度「チボー家の人々」を読むと,相変わらずジャックの気持は良く理解できますが,同時に父親たるチボー氏の気持に同感できるのが(16才の時には考えられもしなかった!)不思議ですね.

この夏「チボー家の人々」を(もう一度)読破するのが楽しみです.
(2000年6月22日(木))

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2004/08/10

独断的映画感想文:父と暮らせば

日記:2004年8月某日
ネタばれあります.
映画「父と暮らせば」は重い映画である.
黒木和雄監督,宮沢りえ,原田芳雄,浅野忠信.
被爆後3年の夏,生き延びて図書館に勤める娘は被爆状況を調べている学者と出会いお互いに惹かれあう.しかし娘は,自分は恋などしてはならない,決して幸せになってはならないと堅く心に誓っている.
見るに見かねて(?)被爆死した父親の幽霊が現れ,その決心を何とか翻そうと奮闘する.
恋はすまいと堅く心に誓っているものの,24歳の娘は学者への恋に激しく心を動かされている.その葛藤の中,父と娘は語り合い被爆時の状況が次第に明らかになっていく.
まさに娘の言うように死ぬことが当たり前で生き延びることが異常であったその状況.次第次第に明かされる一人一人の死の状況.
井上ひさしの戯曲をほぼそのまま映画化したと言うこの作品は,台詞がよく練れていて緊張感に貫かれ,幕開けから幕切れまで一気に進行するが,合間に挟まれる井上ひさし独特のユーモアもあって,時間の経つのを忘れる.特に宮沢りえの素晴らしさ.主人公になりきってその嘆き,笑い,喜び,悲しみを演じきっていることに感動する.
最終場面で,学者との恋が成就しそうになったことに気後れし,逃げようとする娘を父が決死の(?)迫力で説得し,遂に娘は前向きに生きようと決意する.学者を迎えるための料理を作るまな板のとんとんという音.平凡な幸せの象徴のようだ.父親は口実を設けて姿を消す.その後ろ姿に娘が「おとったん.ありがとありました」と言う.
深い感動が後まで残る名作である.★★★★☆(★5個が満点)

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2004/08/09

独断的映画感想文:アララトの聖母

日記:2004年8月某日
映画「アララトの聖母」を見る.
デヴィット・アルペイ (ラフィ),アーシニー・カジャン (母アニ),クリストファー・プラマー,シャルル・アズナブール.
1915年に起きたトルコ軍によるアルメニア人の大虐殺を扱った映画.
この事件の映画を撮ろうという監督はその母親がこの事件の生き残り,その映画のモチ-フになるアルメニア人画家アーシル・ゴーキーの研究家のアニもアルメニア人,息子のラフィは父がトルコ公使を暗殺したことを知り,愛し合っている義理の妹シリア(ラフィとは血のつながりはない)はアニが父の自殺の原因だと責め続けている.
その映画でトルコ総督役をするアリはカナダ生まれのトルコ人,彼と同棲しているフィリップはゴーキーの絵を飾る美術館に勤め,その父デイヴィッドはラフィがトルコから帰国したときの入国審査官.
劇中劇で作成されていくその映画の各場面は虐殺の模様を伝えるが、その中にフィクションもあるとアニは言う.虐殺の謎,ゴーキーの絵の謎,シリアの父の自殺の謎,ラフィがトルコで何を見てきたかの謎が,この入り組んだ人の関係の中で語られていくが,映画「アララトの聖母」は前後関係が入り乱れ相当に複雑な構成.
人々に大きな苦しみを与え未だにその影響を拡げている90年前の大虐殺.そのために運命を変えられた人たちが今苦しむ現代の悩み.それらがあるものは癒されあるものは謎のまま残っていく.この映画は相当に象徴的で、明快ではない.
この映画が只の虐殺告発の映画ではなく,大きな歴史の中の人間を扱っていることはよく分かる.しかしこの構成はこれで良かったのか,クリストファー・プラマーの長すぎるラフィの取り調べは結局何だったのか,いくつかの疑問が残る.★★★☆(★5個が満点)
アーシル・ゴーキーは実在の画家,映画のモチーフになった絵はワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートにある.画家とその母がこの世に残した唯一の写真を題材にした未完の作品.こっちの絵の方が必見かも知れない.

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2004/08/07

独断的映画感想文:8mile

日記:2004年7月某日
映画「8mile」を見る.人気ラッパーエミナム(白人)の自伝的映画で本人主演.
8マイルはデトロイトの町を区画する8マイルロードのこと,向こう側は金持ちの街,こちらは貧民街.
廃屋の並ぶ荒れた街の荒れた生活.母親(キム・ベイジンガー)は自分の上級生と同棲中.自分の恋人は裏切り,その相手を叩きのめしたら,相手が頼んだラップバトルのライバルチームに逆に袋叩きにされる.
このあたりの展開は,出口のない主人公への共感で切なさを感じる程だ.
しかしこの中で主人公は成長し,ついにラップバトルで白人であるにも拘わらず,並み居る黒人の圧倒的支持で優勝する.
最初バトルに出ても何も言えなかったり,全てを人のせいにしていた主人公が,最後に相手をラップでぐうの音も出ないほど圧倒するシーンは感動的である.
僕はこれまでラップと言えば理解できないものと思っていた.しかしこの映画では,ラップはリズムさえ与えられれば(そのリズムは街のどこにでも存在する)自然に湧き上がってくるものだと言うことがよく分かる.
ラップへの認識を新たにする映画,★★★★.

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2004/08/05

独断的映画感想文:贅沢な骨

日記:2004年7月某日
ネタバレがあります,注意!
仕事は特に破綻なく終わって帰宅7時頃.夕飯はボロニヤソーセージと野菜炒め,サラダと鶏唐揚げで缶ビール,ワイン.
映画「贅沢な骨」を見る.麻生久美子,つぐみ,永瀬正敏の主演.不感症の売春婦ミヤコ(麻生)はサキコ(つぐみ)と暮らしているが,彼女の庇護者のようである.サキコは家出少女で親に愛されなかったらしい.ミヤコは喉に骨が刺さったような感じでしょっちゅう口をぱくぱく開けている.
二人のねぐらにある日初めてミヤコをイカせた新谷さんが転げ込み,3人の微妙な関係がスタートする.サキコは自殺とも事故とも取れる転落で足を折り,入院中に新谷さんとミヤコは同棲同然.
ミヤコは一方で新谷さんにサキコを抱いてと言い一方でそういう自分を持て余しているようである.サキコは部屋を出るが新谷さんが身を引いて二人は元の鞘に戻るかと言うところでミヤコの突然の死,たった一人でミヤコの骨を拾い環椎(第1頸椎,喉のあたりの骨である)をじっと見るサキコ.いかにも日本的な心に残る映画である.
結局2人とも独りぼっち,愛情を上手く表現できない同士.麻生久美子はしかし売春婦の役だというのに何故脱がないのだ?つぐみがきっぱりと脱いでいるのに.麻生久美子ファンを自認する小生としてはいささか釈然としない.
永瀬はいい味.つぐみがかわいい,★★★☆(★5個が満点).
昨日買った高度10000メートルの雲の本読んでて就眠1時半.

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2004/08/03

独断的映画感想文:アバウト・シュミット

日記:2004年7月某日
映画「アバウト・シュミット」を見る.主演ジャック・ニコルソン.
生命保険会社を部長代理まで勤め上げて定年退職したシュミット氏.豪勢なキャンピングカーで思い出作りに行こうとはしゃいでいた妻が急死,一人娘はもうすぐ結婚で相手のことしか見えていない.
シュミット氏はキャンピングカーで一人放浪の旅に出て,その心の内を月22ドルの寄付で「養子」にしたンドゥグに書きつづる.
と言うロードムービーなのだが,実にいやな映画(いやな主人公というべきか),普通こういうときは本人の自己批判・自己否定を経て死と再生の物語になるわけだが,シュミット氏には自己反省が何一つない.
妻の死後家は荒れ放題,キャンピングカーは馬鹿馬鹿しく巨大だが,それで思い切って旅に出て最初に電話をしたのは仕事中の娘が住む街に着いてからだった.
「パパがどこに居るか判るかい」という信じられない脳天気な電話をするシュミット氏.頭に来た娘に来るなと言われ自然の中で一夜を過ごし,「判った!」と言って勇躍取りかかったのは,娘に許嫁と別れろと命令することだった.
娘の許嫁一族は確かに馬鹿で下品だが(そう描かれている),自分はどうだ.上品で思慮深いのかもしれないが究極の馬鹿ではないか?放浪中インディアン(ネイティブ・アメリカン)に会って感銘を受ける一方,西部開拓史のモニュメントに感動するというのも,自覚的行為とは思えない.娘との関係だって,妻任せでろくに話もしたことはなかったようだ.
最終シーンでまだ見ぬンドゥグから郵送されてきた「絵」を見て泣きじゃくるシュミット氏だが,その醜悪さ.監督の意図はこの醜悪さを見せることだったのか?その辺が見極められず,迷いの★★★(★5つが満点).

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