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2004年9月に作成された記事

2004/09/30

undercooled

表題の「Undercooled」は,坂本龍一の新曲のタイトルである.
意味は「冷やし足りない」と言うほどの意味だろうか.今日はこの曲のご紹介.

曲はシンセサイザーと胡弓(正確には二胡というらしい)が奏でる印象的な主題でスタート,曲の最後までこの主題は繰り返される.
続いてここにラップが重ねられるが,このラップはハングルで意味は聞いても(僕には)判らない.
歌詞カードを見ると和訳がのっていて,暴力の応酬が続く世界への怒りと嘆きが唄われてることが判る.
途中で主題もラップも中断し,エレキギターによるインプロヴィゼーションが繰り広げられるが,叫ぶ様に唄うこのギターを聞いているとジミ・ヘンドリックスを思い出した.

1969年8月17日(何とまあ遙か昔のことだろう !),40万人が集まったライブフェスティバル「ウッドストック」の最終日にジミ・ヘンドリックス率いるイクスピアリアンスにより演奏された「アメリカ国歌」は,伝説の名演として記憶に残っている.
演奏が素晴らしく感銘的だっただけでなく,このときのジミの「アメリカ国歌」はその唸るギター,叩きつける様なノイズィな演奏によってアメリカがその瞬間にベトナム戦争を戦っていることを,聞くものに強烈に印象づけただろうと思ったからだ.
最後にハウリングの洪水の中からようやくアメリカ国歌の最後のフレーズに戻り,それを弾いた後のエンディングがそのまま「紫の煙」の序奏に繋がっていくあたりは,今思い出しても鳥肌が立つほどの素晴らしさだった.

さて今9.11後の世界への怒りと嘆きを表明していると思われるこの曲のギターも,なかなかの熱演(CD版も良いが僕の見たTVライブ版の方がもっと良かった).曲はこの後また主題のメロディとラップのからみに戻る.

この曲の哀調に満ちた主題,淡々と繰り返されるラップ,ギターのインプロヴィゼーションは,今僕が感じているアメリカやイスラエル(の政策)に対する嫌悪感,世界に対する無力感,自分に対する居心地の悪い・苛立たしい・しかしどうしようもないという気持ちに微妙にフィットする様に思われる.それがこの曲が印象に残る理由だろうか?
坂本「教授」は世界が暴力でオーバーヒートしているという意味でこの曲にUndercooledというタイトルを付けたようだが,1969年に比べれば世界はOvercooledではないかというのが僕の感想.

それはさておきこの曲,一聴の価値ありとご推薦いたします.
(2004年3月29日)

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2004/09/26

独断的映画感想文:OUT

日記:2004年9月某日
映画「OUT」を見る.http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD33337/index.html
監督:平山秀幸,出演:原田美枝子、倍賞美津子、西田尚美、室井滋、間寛平、香川照之
本日は宿酔である.その宿酔にとって,出だしの展開は辛いものだが(バラバラ殺人事件である),なかなか面白い映画.
パート仲間の4人は,しっかり者で元銀行員の雅子が家庭崩壊,寝たきりの姑の面倒を見ている「師匠」,ばくちにはまりきった夫を持つ臨月の弥生,ブランドマニアでローン地獄の邦子.
後者2人は馬鹿で厚かましく調子が良くてわがまま,その弥生が起こした犯罪に前者2人が何故か巻き込まれていく.更にその犯罪の後始末で,邦子が致命的などじを踏む.
実際雅子ほどのしっかり者が,どうして弥生なぞという女の大して決意したわけでもない殺人という犯罪に巻き込まれてしまうのか,冒頭ではよく分からないが,物語の展開の中で何となく判ってくる.
つまり雅子にとっては,弥生に不条理に犯罪に巻き込まれていくことが,ある種のうれしさに通じているのではないか?そう感じさせる雅子の状況は,映画の中で次第に判ってくる.
犯罪映画であり,それぞれどうしようもない状況で男女が殺し合っていくという重苦しい映画だが,ラストシーンは何故か爽やかという,不思議な映画である.ま,好き嫌いはあるでしょうがね.
原作は大ベストセラーと言うことだが未読である.最後のシーンのオーロラはファンタジーと見るべきだろうか.★★★(★5個が満点)

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2004/09/15

我はロボット

アイザック・アシモフの傑作SFである.今,原題「アイ・ロボット」で映画化され公開されている.
僕はまだ映画は見ていないので(ひょっとしたら見ないで終わるかもしれない),これからの話は,アシモフのSFに関する話である.
僕がこのSFを読んだのは何時だったろう?おそらく中2か中3だったのではないか?
合衆国でロボットを独占的に製造・販売するUSロボット&機械人間株式会社の所有する数々のロボットのエピソード集という形を取ったこの短編集には,ロボット心理学者スーザン・キャルビン博士(いやあ懐かしい)他幾多の人々が出てくるが,主人公はあくまでもロボットである.
僕はこの本で,ロボット工学3原則を学び(未だに僕にとってはこの3原則は侵すべからざる権威を持っている),それを巡るロボットの意識のポテンシャルによる思いがけない物語の発展に,目を見張ったのだった.
SFとはこういうものか!?という感動が,中学生の僕にはあった.SFでは特にタイム・パラドックスものとロボットものが好きだった僕だが,いずれも論理的に精緻に積み重ねられたに過ぎない結果が,人間にとっては想像もできない状況となるところが特徴である.
「我はロボット」の中でも「ロビィ」は別として他の8編はいずれもロボット工学3原則にかかわるロボットの心理状況がドラマの内容になっている.中には発狂して破滅するロボットも出てくる.ロボットの陥る苦境の探索は,プログラムに潜むバグの探索にも似たスリルを味わわせてくれるのだ.
アシモフの描くこれらロボットの世界は,人間の立ち向かう課題の一つ,挑戦する対象の一つとして描かれているような気がする.3原則の論理によって作られたロボット達を人間は如何に制御していけるのか,という課題だ.
もちろん我が鉄腕アトムとは,このあたりの前提が相当違うといわざるを得ない.アトムをはじめとする日本のロボット達は先験的に人間の友達である.論理によって縛られているのではない.ロボット達は人間の差別に対して反乱を起こすことはあっても,普通の状況では人間と同じ常識を持っているように振る舞っている.論理的なアシモフのロボットに対して情緒的と言っていいかもしれない.
とまあこんなことを考えながら,中2の僕は目を見張る思いをして「我はロボット」を読んだのだった.
数年前に「我はロボット」を読み返し,上記の感想を再確認したのだったが,最近その続編とも言うべき同じ作者の短編集「ロボットの時代」を読んだ.内容としては上記のことに付け加えるようなことは特にない.数々のロボットのエピソードがスーザン・キャルビン博士をはじめとするUSロボット&機械人間株式会社のスタッフと共に繰り広げられる内容は,「我はロボット」と同様である.僕が驚いたのは,その執筆年代を始めて知ったからである.
今まで中学時代に「我はロボット」を読んだのは新作を読んだのだと思っていた.事実「我はロボット」は1963年に発行された新作なのだが,これはダブルディ社の新版で,初版は1950年にノーム・プレスから発行されている.そしてそれぞれの作品の執筆年次は「ロビィ」が1940年,以下最新の「災厄の時」が1950年である.9作のうち6作までが1945年8月までに書かれている.
僕の父の年代の人々が,当時の日本政府によりたった一つの考えのもとに強制され,ロボットのように死に向かい,あるいは他国の人を殺戮していたあの時代に,かの国ではアイザック・アシモフがこういうエンターテインメントを書いていたのだ.
今かの国がどんなにおかしくなってしまったかは誰もが知るとおりだが,半世紀前の我が国とかの国の位置関係は,それと関わりなく決して忘れることはできない.
「我はロボット」というSFの名作は,今その様な指標として改めて印象づけられることになった.
(2004年9月15日)

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2004/09/11

独断的映画感想文:櫂

日記:2004年9月某日
映画「櫂」を見る.1985年五社英雄監督,緒方拳,十朱幸代,石原真理子,高橋かおり.
名取裕子が見たくて「吉原炎上」を,夏目雅子が見たくて「鬼龍院花子の生涯」と五社英雄映画を見てきたのだが,その延長で見たこの「櫂」が一番良かった.
原因は脚本のせいだろうか,岩伍と喜和という二人の軸がしっかりしているからだろうか.
舞台はいつものように高知,女衒岩伍の嫁として,金を右から左に使う夫の稼業の足下を守り子育てをする喜和.しかし女衒で飽きたらず興行元への飛躍を図る夫は,女義太夫に手をつけ子供をもうける.
その子を引き取れと周囲から迫られても断固として拒否する喜和.しかし結果的に喜和はこの赤子綾子を愛情を込めて育てる.
しかし綾子が女学校へ行くという頃,夫は再び女を引き入れ,子宮筋腫の手術後退院した喜和は綾子と実家に戻る.その綾子を戻せと,借金をたてに喜和の父に迫る岩伍.喜和は遂にある決意をする.
岩伍と喜和の愛憎の物語だが,二人の俳優がしっかりした軸になっていて映画の構造が鮮明である.おまけに脇役や子役(当時10歳の高橋かおりは,子役と言って良いのだろうか?素晴らしい演技)が健闘していて,五社映画特有の嘘っぽさが無い.
十朱幸代はこのとき43歳,20代の若妻の濡れ場から50代の疲れ切った女までを演じて実に見事(と言ってもどう見事なのだろう?).
最後のシーンで岩伍と喜和の関係の本質が判るような気がするが,それは所詮男の身勝手と言うべきものだろう.自分もそれが分かる程度の,壮年の男ではある.★★★☆(★5個で満点).

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2004/09/09

独断的映画感想文:テープ

日記:2004年9月某日
映画「テープ」を見る.
3人の男女がモーテルの一室を舞台に繰り広げる心理劇.
3人は高校の同窓生、お互いに恋愛関係にあったらしい.最初男性2人が登場(粗暴な薬の売人とインテリの映画監督)、旧交を温め近況を話すうちに、話題はこの女性のこととなる.
この女性との関係を売人が監督に執拗に迫り告白を引き出す.やがて女性の登場.主演はイーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ロバート・ショーン・レナード.
場面はモーテルから一歩も出ず、カメラは登場人物を順番に写すだけという退屈な画面、途中で眠ってしまったが、中盤から俄然面白くなる.
2人のキャラクターの対照がつぼにはまって面白い.最初は高姿勢だった監督が売人に翻弄されていく過程も傑作.さらに最後女性が登場してからの展開はそれに輪をかけて痛快.
3人とも良いが特にイーサン・ホークがうまい.但し,カメラが扇風機の首振り状態で会話を追うのは興醒めである.地味な傑作、★★★☆(★5個が満点)

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2004/09/06

独断的映画感想文:覇王別姫

日記:2004年6月某日
映画「さらば我が愛-覇王別姫」を見る.
監督チェン・カイコー(北京ヴァイオリンのユイ教授である),レスリー・チャン,コン・リー.
堂々たる叙事詩.
京劇の一座に預けられた娼婦の息子小豆は,仲間の一人小楼と兄弟の契りを結ぶ.
二人は長じて一座の花形になり,覇王別姫の楚王と虞姫を演じて人気を博す.
小楼は遊郭の女菊仙と結婚,それ以来この3人の男女は葛藤に苦しむことになる.
時は日中戦争から国共内戦,そして文化大革命へと移りゆき,文化大革命の中で大衆追及を受ける中,遂に3人は互いを裏切る結果となる.
最後,文化大革命の収まった1977年に小豆・小楼は再会し舞台稽古を行うが…….
文化大革命の描写は苦いものがある.
あの時代自分は糾弾する側の年代だった訳だが,今映画でそのシーンを見ると何とも言えないやりきれなさを感じる.人間の裏切りや苦難が革命というものなのかとつくづく思う.
チェン・カイコーはあの時代紅衛兵で,後に下方したとのこと.
京劇とその人気の素晴らしさは歌舞伎に通じるものがあって印象的,172分を全く長いと感じなかった.
★★★★☆(★5個で満点)

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独断的映画感想文:妹の恋人

日記:2004年5月某日
雨である.気温低く体が冷え込む.
映画「妹の恋人」を見る.
ジョニー・デップ,メアリ・スチュアート・マスターソン,エイダン・クイン.
働き者の兄は神経症に病む芸術肌の妹と暮らし恋人もできない.
妹が友人たちとのカードの勝負に負け,同居を押しつけられたのが友人のいとこのデップ,字も書けずちょっといかれた青年だがボードビリアンの才能がある(これがまたうまい).
妹を施設に預けなきゃと悩む兄も二人の心温まる交流を見守る.
ついに青年と妹は結ばれるが,兄は逆上,妹は青年と駆け落ちしようとして発作を起こし入院へ.兄と青年は和解して妹を病院から助け出すための珍作戦で協力する.
心温まる映画,同じ国にマンハッタンがあって,エスタブリッシュな悪党どもが世界を食い物にする陰謀にうつつを抜かしていると言うことを忘れてしまいそうな,ほのぼのさである.
ジョニー・デップはこの作品と「ギルバート・グレイプ」が素晴らしい.どうして「フロム・ヘル」や「スリーピー・ホロウ」,「パイレーツ・オブ・カリビアン」の方に行っちゃったんだろうな.ま,それも悪い訳じゃないんだけど.
★★★★(★5個が満点)

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独断的映画感想文:ギルバート・グレイプ

日記:2004年5月某日
映画「ギルバート・グレイプ」を見る.
サイダーハウス・ルールのラッセ・ハルストレム監督,ジョニー・デップ,レオナルド・デカプリオ,ジュリエット・ルイス.
田舎町エンドーラの片隅に住むグレイプ一家は,知恵遅れのアーニーと,夫の突然の自殺以来家を出ず,250キロになった母親を守って,3人の兄妹が働いている.特に長兄のギルバートの閉塞感が印象的.
ある日トレーラーで祖母と通りかかり,車の故障で暫く逗留することになったベッキーと友人になるギルバート.物語はここから展開し,不思議なハッピーエンドがやってくる.
3人の俳優がいずれも素晴らしく,田舎町エンドーラの閉塞感と古きアメリカの良さの描かれ方,人間の尊厳の考え方等いずれも爽快.
ギルバートの母親が(上述の通り250キロである)ベッキーと会うシーン,ベッキーの祖母がベッキーとギルバートをそっと見つめるシーンが印象的.
こんなアメリカ映画もできるんだと思わせるが,監督はスエーデン人だもんね.
デカプリオの演技は公開当時天才的と絶賛を浴びたそうだが,デップも素晴らしい,★★★★(★5個で満点).

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