我はロボット
アイザック・アシモフの傑作SFである.今,原題「アイ・ロボット」で映画化され公開されている.
僕はまだ映画は見ていないので(ひょっとしたら見ないで終わるかもしれない),これからの話は,アシモフのSFに関する話である.
僕がこのSFを読んだのは何時だったろう?おそらく中2か中3だったのではないか?
合衆国でロボットを独占的に製造・販売するUSロボット&機械人間株式会社の所有する数々のロボットのエピソード集という形を取ったこの短編集には,ロボット心理学者スーザン・キャルビン博士(いやあ懐かしい)他幾多の人々が出てくるが,主人公はあくまでもロボットである.
僕はこの本で,ロボット工学3原則を学び(未だに僕にとってはこの3原則は侵すべからざる権威を持っている),それを巡るロボットの意識のポテンシャルによる思いがけない物語の発展に,目を見張ったのだった.
SFとはこういうものか!?という感動が,中学生の僕にはあった.SFでは特にタイム・パラドックスものとロボットものが好きだった僕だが,いずれも論理的に精緻に積み重ねられたに過ぎない結果が,人間にとっては想像もできない状況となるところが特徴である.
「我はロボット」の中でも「ロビィ」は別として他の8編はいずれもロボット工学3原則にかかわるロボットの心理状況がドラマの内容になっている.中には発狂して破滅するロボットも出てくる.ロボットの陥る苦境の探索は,プログラムに潜むバグの探索にも似たスリルを味わわせてくれるのだ.
アシモフの描くこれらロボットの世界は,人間の立ち向かう課題の一つ,挑戦する対象の一つとして描かれているような気がする.3原則の論理によって作られたロボット達を人間は如何に制御していけるのか,という課題だ.
もちろん我が鉄腕アトムとは,このあたりの前提が相当違うといわざるを得ない.アトムをはじめとする日本のロボット達は先験的に人間の友達である.論理によって縛られているのではない.ロボット達は人間の差別に対して反乱を起こすことはあっても,普通の状況では人間と同じ常識を持っているように振る舞っている.論理的なアシモフのロボットに対して情緒的と言っていいかもしれない.
とまあこんなことを考えながら,中2の僕は目を見張る思いをして「我はロボット」を読んだのだった.
数年前に「我はロボット」を読み返し,上記の感想を再確認したのだったが,最近その続編とも言うべき同じ作者の短編集「ロボットの時代」を読んだ.内容としては上記のことに付け加えるようなことは特にない.数々のロボットのエピソードがスーザン・キャルビン博士をはじめとするUSロボット&機械人間株式会社のスタッフと共に繰り広げられる内容は,「我はロボット」と同様である.僕が驚いたのは,その執筆年代を始めて知ったからである.
今まで中学時代に「我はロボット」を読んだのは新作を読んだのだと思っていた.事実「我はロボット」は1963年に発行された新作なのだが,これはダブルディ社の新版で,初版は1950年にノーム・プレスから発行されている.そしてそれぞれの作品の執筆年次は「ロビィ」が1940年,以下最新の「災厄の時」が1950年である.9作のうち6作までが1945年8月までに書かれている.
僕の父の年代の人々が,当時の日本政府によりたった一つの考えのもとに強制され,ロボットのように死に向かい,あるいは他国の人を殺戮していたあの時代に,かの国ではアイザック・アシモフがこういうエンターテインメントを書いていたのだ.
今かの国がどんなにおかしくなってしまったかは誰もが知るとおりだが,半世紀前の我が国とかの国の位置関係は,それと関わりなく決して忘れることはできない.
「我はロボット」というSFの名作は,今その様な指標として改めて印象づけられることになった.
(2004年9月15日)
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