独断的映画感想文:サマリア
日記:2007年10月某日
映画「サマリア」を見る.
2004年.監督:キム・ギドク.
クァク・チミン,ソ・ミンジョン,イ・オル.
「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」の3章からなる映画.
チェヨンとヨジンは高校1年同士の親友,二人でヨーロッパ旅行に行く金を貯めるため,チェヨンはインターネットを使った売春をしている.
ヨジンは身体を売ることに反対だが,実際は相手に電話をかけたり,見張りをしたりするのはヨジンの役目だ.警察の踏み込みをかいくぐって,二人は売春を続ける.
バスミルダは,自分を買った男達を仏教徒に改宗させたという古代のインドの娼婦の名前,チェヨンは自分はバスミルダだと言う.
ある日遂に警察がホテルで男といるチェヨンの部屋に踏み込む.チェヨンは窓から身を躍らせた….
続く「サマリア」では,残されたヨジンが,その罪を贖うため,チェヨンが寝た男達を呼び出してベッドを共にし,支払われたお金を返していく.
ところがその現場を父が目撃してしまった.早くに母が亡くなった後,父一人で育ててきたヨジン,刑事である父は,ヨジンを追い,ヨジンと寝た男達に復讐を果たしていく….
その結末が「ソナタ」で描かれる.
こういう映画だが,題名から僕は宗教色の強い象徴的な映画を予想していた.そして映画は確かにその様な映画だと思うのだが,僕が個人的に期待していたのと微妙に食い違うところがあって,それがこの映画にもう一つ共感できないところなのだろうと思う(その点でこのレビューはまことに独断的なものである).
例えばチェヨンが窓から転落したシーン.
何故チェヨンは窓から飛び降りたのか.客を幸せにする,まさにバスミルダとしての存在だったチェヨン,しかし警察に捕まれば只の犯罪者として断罪される.
それは地上に堕ちた天使に他ならない,というのがあのシーンだったのだろうか?
また,「ソナタ」でヨジンが目が覚めると乗っている車は川の中に立ち往生しているというシーン.それは罪を清めるためのバプティスマ(洗礼)として描かれているのだろうか?
そうであるなら,その描き方は僕にとってはやや説明的に過ぎる.
映画の扱っている題材自体には共感できるし,望遠を使った映像の美しさは素晴らしいが,その辺りが腑に落ちないまま残った映画だった.
★★★(★5個が満点)
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